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書物のリレーエッセイ(第1回)

『善の研究』のことなど / 下西 善三郎(言語系・日本古典文学専攻)
()内の肩書・所属は掲載当時のものです

わたしの名前が「善」三郎だから、どうしても読まなくちゃならない、と思って、もう四十年も昔の学生時代、手に取った本があった。西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫)である。日本人が書いた最もむつかしい本の一つ、という評判は、知っていたような気がする。読み始めて、「経験するというのは、カクカクシカジカで……それで純粋経験は直接経験である」などとある。「それで」と言われてもね、と思いながら読み進める。「純粋経験」? わからない。我慢して、読み進める。さらにわからない。……挫折した。

西田の至りついた「絶対矛盾的自己同一性」という論文は、『善の研究』の到達点らしい。昨年、西田研究者と話す機会があって、この論文を読もうとしたが、先に進まない。ただ、「絶対矛盾の自己同一」という文句だけは昔から知っていて、友人に吹聴した覚えがある。そのことばを知っている、ということを示すだけのために。

『老子』という書物に、「大いなる音楽には、音がない。大いなるかたちには、形がない」(第41章)という。これが、「絶対矛盾的自己同一性」にかかわる「純粋経験」の意味だ、と述べている本(『老子の思想』学術文庫)に最近出会って、何だ、そんなことだったのか、と分からないながら得心したような気になった。あらためて『善の研究』に再挑戦すべき頭の年齢にようやく達したのかとおもう。きっとやっぱり分からないだろうけれど(学術文庫の註釈付きのものを読もうと思う)。

ともあれ、『善の研究』の文字面を追いつつ、学生時代に何を思ったか。ヨノナカにはムツカシイことを考えながら生きる人がいるものだという事態である。それは、すなわち、まことに「わが身の〈無知〉を知る」という事態であった。西洋の人名がいくつもあがっていて、重要な古典は読んでおかなければ、と思った。ちょっとかじった。もちろんすぐに頓挫した。けれども、ムツカシイ本に挑戦するのが大学生だ、という昔風の素朴な感覚だけは持っていたのだと思う。

この年齢(とし)になって、「自前の思想」を築こうとする日本人の書物、また東洋思想の深みを展開する古典を、あらためて追いかけてみたい気持ちになっている。体力、気力の充実が必要である。若いということは、体力・気力が自然に備わっている時期。「今のうちだぞ」と、かつて老先生から聞かされていたのに、易きに流れた。「ワカさ」は、ホント、「バカさ」に通じている(むろん、あなたのことではない)。『ドリアングレイの肖像』を読んでいたら、「Time is your enemy. It will steal everything from you.」という文句があった。年寄りはいつも若者に教えたがる。多くは、羨望が説教になっただけの話だ。

話頭転換。……以前、ひょんな事から南洋の小さな島(バリ島)の浜辺に立つことがあった。美しい砂浜がひろがっている。浜辺での食事を楽しんでいて、ふと見ると、今までそこにあった美しい砂浜が潮にひたされてなくなっていた。ハッと思い当たった。そうか、これのことだったか。「沖の干潟(ひがた)、はるかなれども、磯(いそ)より潮(しほ)の満つるが如し」。これは、『徒然草』のことば。「無常」が、ふと足下に満ちている。そのことの譬喩である。<死の不意打ち>を喩して、これ以上のものはそうあるまい。若いときには、わからなかった。今ちょっとだけわかるような気がする。なんと迂闊(うかつ)であったことか。この一行あるゆえに、わたしは、『徒然草』を愛する。

若いときは、迂闊(うかつ)をひきずったまま、生きる現実に忙しかった(ちょうど、あなたのように)。だが、そんなときにも、漱石『行人』の、「人から人へ掛け渡す橋はない」ということばをつぶやく人物に出会ったりする。「孤独」とは、こういうことか、と悟った。孤独が「絶望」に通ずる道だとすれば、痛ましい。けれども、群れていたって、寂しさはかわらない。

アウシュビッツのガス室という絶望の部屋に投げ込まれる寸前、そこから奇跡の生還をはたしたフランクル『夜と霧』(みすず書房)は、語る。「絶望」に囲まれて、それでも人は何によって生きうるか、と。「未来」「希望」ということばの意味をあらたにみいだすためにも、まだ読んでいないなら、若いうちの一読をお薦めしたい。(2012.11.2)


※エッセイで紹介されている資料のうち、当館に所蔵しているもの

  • 『善の研究』 (岩波書店ほか)
  • 『老子』 (岩波書店ほか)
  • 『老子の思想』 (講談社)
  • 『ドリアン・グレイの肖像』 (岩波書店ほか)
  • 『徒然草』 (岩波書店ほか)
  • 『行人』 (岩波書店ほか)
  • 『夜と霧』(みすず書房ほか)

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