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『書物』のリレーエッセイ (第7回)

「くりかえし手にとる」 / 梅野 正信 (学校臨床研究コース<学習臨床研究>)
()内の肩書・所属は掲載当時のものです

研究から離れ、本を手にするときはいつも、疲れている自分がいる。この本を手にしなければその疲れを癒せないというのではないし、思い悩む課題の解決を探すというのでもない。自分を励ますというのも正確ではないだろう。自分の場所に戻るためにという言い方が、少しは近いだろうか。だからその本は、何度も読み直してきた本、ということになる。

高校時代から付き合ってきたのは、『経済学=哲学手稿』(マルクス 青木文庫)と『化石』(井上靖 角川文庫)。等価交換の解説、主人公の一鬼が柱に埋め込まれた化石を見る場面は、心を落ち着かせてくれる。『戦争と人間』(五味川純平 三一書房)は大学時代からのつきあいになる。標耕平が出兵する兄とかわす言葉ではいつも涙してしまう(第3巻)。ミッションスクールで教師をしていた頃、『聖書』を読むようになった。姦淫の罪を問われる女性の話(ヨハネによる福音書第8章)を読むと、傲慢な自分が恥ずかしくなる。鹿児島大学の教員時代に、茨木のり子さんの詩が加わった。「倚りかからず」(筑摩書房)を読むと、結局のところそうなのだと思い知らされる。『責任と判断』(ハンナ・アレント/筑摩書房)もそうである。「そこで自分をごまかしてどうするの?」と言われているような、それでいて清々しい気持ちになる。

どの本も、自宅か研究室の手の届くところに置いている。そしてどの本も、受けとる言葉の意味するところは同じである。「おまえは何をしているのか」と語りかけてくる。言葉の意味するところへの邂逅に、時々の本を選んでいるということになる。そのような言葉を聞きたくなることが、一年のうちに何度かある、ということだろう。

『古事記』と『万葉集』は、もう30年前になるが、上越教育大学の大学院時代に読み始めた本である。やはりこの二書も、「何をしているのか」と問いかけてくる。10月に中国からやってきた、才気あふれる留学生たちと、昼休みや空時間、『古事記』(岩波文庫)を読んでいる。そのあと『万葉集』(小学館)を読む予定でいる。「本当に大丈夫ですか」「退屈じゃないですか」と尋ねてみるが、よいという。指導教員にあわせて無理をしているのではないか、迷惑でないのだろうか、と心配になるが、それでも、一緒に読み、話をすることは、とても楽しい。残り少なくなったけれども、大学の教員をしていて、よかったと思うことの一つである。(2013.12.06)


『聖書』関係の資料は主に分類番号190番台にあります。茨木のり子さんの『倚りかからず』は未所蔵ですが、『おんなのことば』なら所蔵しています。

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