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書物のリレーエッセイ(第3回)

「人間と言葉」 / 西村俊夫 (副学長)
()内の肩書・所属は掲載当時のものです

地球上には多くの「生きもの」がいます。なぜかその中でも人間だけが特別な存在のように思えます。いったい人間と他の生物との違いはどこにあるのでしょうか。別の言い方をすると,人間を人間足らしめているものは何かという問題です。その違いを道具の使用にみて,人間をホモ・ファベル(工作人)と名付ける考えもあったようですが,言葉の使用にその違いの本質をみるというのは多くの人の一致した考えであると思います。 L.マンフォードは『芸術と技術』(岩波新書)の中で「人間とは,道具作りである以前に,まずイメージをつくるものであり,言語製作者であり,いわば夢想家であり芸術家であったと思われます」と語っています。また,N.チョムスキーは『言語と精神』(河出書房新社)の中で,言語の本質は「人間とそれ以外の動物を区別する特性である」と語っています。 何年か前,NHK夏休み子ども科学電話相談で,幼保園児から「虫さんは言葉が話せないのに,どうしてヒトは言葉が話せるのですか」というような質問がありました。回答にあたった「先生」は,確か,人間の身体的な特性という視点から丁寧に説明されていたように記憶しています。しかし,質問しているのが幼保園児ですので,どの程度理解できたかは疑問です。この質問は大変哲学的な問いであると感じました。普通は「人間は言葉が使えるのに,どうして昆虫はできないのですか」というようなかたちになりますが、この子は「虫さんは…」と質問しています。きっと,この幼保園児にとっては「虫」と「人間」とは同列にあるのだな,と感じました。いずれにしても言葉が人間を「特別」なものとしているようです。

人間は言語によって文化をつくり,科学技術を発展させ,今日の豊かな物質文明をつくり出しました。30年ほど前,アルビン・トフラーの『第三の波』(日本放送出版協会)という本がベストセラーになりました。第一の波は農業革命で,第二の波は産業革命,第三の波は脱産業社会に押し寄せる情報の革命です。 トフラーはこれから来る大変革を予言的に書いているのですが,今日の私たちは,その“情報革命”の真っ直中にいます。こうした“革命”の中心は科学技術であり情報技術です。それこそが言語の発達によってもたらされたものであります。現代社会は、ある意味その技術に支配されているようにさえ思えます。

しかし,そのことを根底から考え直させられる本があります。D.L.エヴェレット(屋代道子訳)の『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』(みすず書房)です。伝道師で言語学者である筆者は,1977年12月,布教と言語調査を目的として家族と一緒にピダハンが住むアマゾン川支流のマシイ川流域の村に入ります。ピダハンの言葉は,他の言語と異なる特徴を持っていて「現存するどの言語とも類縁関係がない」といいます。ピダハン語には,「こんにちは」や「すみません」「ありがとう」といった「交換的言語使用」が見られません。また,ピダハン語には色を表す単語はなく,「右」「左」にあたる単語もありません。文法的にも他の言語とは異なるところがあるといいます。このようにピダハン語は,私たちが日常使っている言語とは大きく異なっています。したがって,生と死や過去と未来そして神に対する考え方も大きく異なっているようです。ピダハンの人々は言葉だけでなく,「ものづくり」の面でも私たちと違っています。ピダハンの人々はものをつくることをほとんどしないようなのです。筆者が,小さな舟しか持たないピダハンに,他の地域のカヌー作りの名人を呼んできて大きな丸木のカヌーの作り方を教えようとしたところ,その「講習」の間は名人と一緒に制作活動を行いましたが,それ以後はつくることはなかったとのことです。「ピダハンはカヌーを作らない」と語ったといいます。 20年以上にわたって何度も訪れてピダハンの人々と一緒に生活し,彼らの文化を理解した筆者は,ピダハンと共に生活していくうちに「現代生活のもっと基本の部分にある,真実そのものの概念も問い直しはじめるようになっていた」と語っています。

未来の地球はどんな姿をしているのでしょう。未来のかたちを考えるのは私たちで,私たちが「文化」をつくり上げてきた芸術表現も含めた広い意味での「言語」で考えるしかありません。これからも地球と共に生きていく私たちに,人間のあり方を考えさせてくれる本です。(2013.3.27)


※エッセイで紹介されている資料のうち、当館に所蔵しているもの

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