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『書物』のリレーエッセイ(第17回)

少女漫画で読むアイデンティティ・クライシス / 越 良子(学校教育専攻長)
()内の肩書・所属は掲載当時のものです

漫画なんてと言われることは,イマドキもうないだろうと思うけれど,本稿で取り上げる漫画家吉野朔実は心理学的な題材をよく扱っているので,私の愛読書として紹介したいと思う。

小説も映画も,漫画だって,そもそも人の心を描き,人の動きを描き,それによって紡がれるストーリーを描いているものである。小説家や漫画家のほうが心理学者よりも,人の心理(真理?)をよくわかっているかもしれない。無論,小説でも漫画でも,優れた作品とそうでない作品はある。

因みに,漫画が心理学的に考察された本として,『「あしたのジョー」心理学概論 “矢吹丈”―その心の病』(SUPER STRINGS サーフライダー21(編著) 中公文庫)も挙げておく。臨床心理学,社会心理学,精神医学など様々な観点から,多少強引ではあるがジョーについて考察がなされている。『あしたのジョー』なんて,今の学生さんたちは知らないかもしれないが,身寄りのない,何も持たずに育ったジョーという不良少年の,アイデンティティ探しの物語であった。

吉野朔実さんは昨年57歳で亡くなられた。大変残念に思う。代表作として『ジュリエットの卵』,『少年は荒野をめざす』がよく挙げられるが,他にも『エキセントリクス』,『ぼくだけが知っている』,『period』など多数の作品がある。院生の頃に初めて手に取った。私は「対人関係における自己」が研究テーマである。彼女の作品を全て読んだわけではないが,アイデンティティ・クライシスを描いていることが多いように思う。

『ジュリエットの卵』は双子の男女のお話である。同じ顔をした兄と妹。妹は兄を溺愛する母から存在を否定され,母から束縛される兄はその外に踏み出すことを許されない。兄は妹を愛し,二人だけの世界で生きていこうとし,妹は兄に愛されることによってのみ,自分の存在を肯定できる。ところが妹だけが東京の美大に進学を許され(追いやられ),大学の友人やアパートの隣人との交流によって,生きる世界を広げていく。しかし兄はそれを受け入れることができない。

『少年は荒野をめざす』は,小説を書く高校生の女の子が主人公である。小さい頃に兄を亡くし,兄の代わりに自分が男の子だと思って育つ。しかし外見が自分そっくりの,理想の自分を具現しているような少年と出会う。私を脅かす理想の私(つまりその少年)に切りつけたり,2人で逃避行したり。彼らの行き着く先はどこか。

『エキセントリクス』は主人公の女の子が事故で記憶喪失になる。以前の記憶を持たない自分は同じ自分なのか。記憶が戻ったら,今のこの自分は消えてしまうのか。そして,ここでもまた双子の少年たちが登場する。

いずれの作品も,私という存在への不安と葛藤と,やがて私を見いだし受容していく,あるいはそれができずに破滅していく姿が,少女漫画の作法で美麗に描かれている。難しいテーマではあるが,創作であるので,わかりやすい。心理解釈の練習用に,臨床心理学の教材として使ってみてもいいのではないかと思う。

今回,これを書くにあたって読み直してみたが面白かった。もう吉野朔実の新作を読めないと思うと悲しい。(2017.9.25)


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