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『書物』のリレーエッセイ(第9回)

歴史の中にある「畏れ」を読む / 瀬戸 健 (教育実践高度化専攻長)
()内の肩書・所属は掲載当時のものです

今、本屋で手に取ってしまうのは、中国歴史小説である。と言ってもハマッたのは、平成一ケタの終わりころであるから、もう15年以上も続いている。特に宮城谷昌光の作品は好きである。「太公望」「奇貨居くべし」「孟嘗君」「管仲」などほとんど全作品を読破した。今も、「湖底の城」が出版途中なので、続巻を待っているところである。

宮城谷の魅力は、その登場人物である。どの作品の主人公も、ほとんど完璧な能力と人格をもつ。人としてあるべき道を踏み外す者驕り高ぶる者は、必ず悲惨な末期を迎えるというような世界でもあり、占いなども大きな力をもつ。人の生き方を運命とでもいう観点から語ろうとする作品群であろうか。私がこれらの作品から感じるのは「畏れ」である。

私の住む富山県氷見市は、能登半島の入口に位置し、自宅は市街地から15キロも山間に入った県境に位置する。村には伝統芸能としての獅子舞が受け継がれ、男の子はそれを教えてもらい毎年それを舞いながら成長する。村の中には地蔵があり、天狗の伝説をもつ岩があり、そして仏教に関わる地名が散在する。日々、仏壇に参り読経する生活は、見えざる神や仏との対話の世界であり祈りの世界の日常でもある。私の「畏れ」は、そんな環境の中で育まれたのであろう。

さて、私の研究分野ともかかわって日本教員史研究では欠かせない二冊を紹介する。一冊は石戸谷哲夫の「日本教員史研究」(1967 講談社)であり、もう一冊は唐沢富太郎の「教師の歴史」(1955 創文社)である。もちろんこの二冊は、日本の教員の歴史を研究する人たちにとっては、必読の書である。しかし、同じ教員の歴史を描きながら、その冒頭部分はまるで違っている。唐沢は田舎の学校で教鞭をとる若い教師が、授業が終わった午後に、用水路で魚を獲って遊ぶ姿から筆を起こしている。それは、農村に受け入れられ馴染んだ教員のおおらかさにあふれている。一方、石戸谷の冒頭は衝撃的である。農村の学校に赴任していく若い教師二人が農民たちに襲われ撲殺されそうになる事件を生々しく書いているからである。人々が明治初頭に学校に対して抱いた猜疑心が、このような事件で表現されたのである。

私の恩師の一人である木村力夫先生は、日本教育史を研究しながら3年サイクルの景気の変動が手に取るようにわかるとおっしゃっていたが、それは私には到底届かない感覚である。しかし、教育の改善に向けて努力した名もなき教員や行政官たちの息づかいは、なんとなく感じることができる。その人たちの努力と工夫によって今があることを思えば、教育制度の改革は少なくとも、過去の先達への「畏敬」から出発したいと思う。(2014.7.8)


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